自分はなぜデザインを学びたいのか

自分が関心のあることだから。

f:id:yubesix:20200209214302j:image

なぜ関心があるのか?

 

周りのもの、広告や名刺、建物も空間も公園や街全体も何らかのデザインがされていてそれがそのできごとへの興味をわかせるひとつの理由になっている。

文字だけ書かれたものは周りに絵があったり枠があるだけで見やすくなる。

色が組み合わさるとそこから優しい気持ちになれたり、悲しい気持ちを共感しやすくなる。

 

 

それだけではなくて、そのデザイン、その絵は、モノはそれを作った人なりのフィルターを通した、こうあってほしい、残したい、こうあるべきだ、こんなふうに感じたんだ、みんなはどう思う?だとか何かを伝えたかったり感じさせたい、って気持ちでできてるんだと思う。

 

そこに魅力を感じる。

 

私も表現者として何かを伝えるフィルターになりたい。

例えば静岡。

私の住む静岡はとても素晴らしい街だと思っている。

どんな所が素晴らしいのか、

  • 温暖な気候
  • 美味しくて魅力的な特産物
  • 山から海まで沢山の豊かな自然
  • 県民性(穏やか、ゆるい、ぬるい)
  • 世界に誇る伝統工芸(竹千筋細工、プラモデル、まだ他にも私が知らないだけできっとある)
  • 大道芸ワールドカップ
  • シズオカ×カンヌウィーク
  • 七間町ハプニング
  • ふじのくに世界芸術祭

        などなどイベントも沢山、、、

 

やっぱり静岡って素晴らしい

 

それだけではない

蒲原の古民家には月に一回人が集まって国際的な交流が行われているし、

 

清水 大内では農家の方と学生を中心とした仲間で竹の伐採・活用、山の整備、畑作りを通しての地域交流

 

石垣いちごの衰退を食い止めたい、と動き出しているいちご農家さんたちの作業を体験し、他県民、他国の人に静岡ならではの栽培方法であることや苦労、そのゴールであるいちごを味わってもらい魅力をしってもらうワークキャンプ

 

丸子についてはまだ詳しくは知らないけど最近盛り上がっているなあ、と思う。

 

静岡だから、ではないことも。

静岡だからこそ、ってことも。

 

全て私が魅力だと感じ、伝えたいと思うことで、そう思えたのは私をその場に誘ってくれた友達や先輩、後輩、色んな人のおかげ。

 

その人たちはその場を多くの人に知ってもらいたいと感じて私を誘ってくれたわけで、

そうやって広まるんだと思う。

素敵だから伝えたい

 

私はそれに、"私の好きなこと"をかけあわせたい。

フィルターを通すことをデザイン、と呼ぶんだったら

 

地域・イベント・人の魅力を広報、宣伝

                              ❌

         デザイン

 

未だにデザインというものを何か、と聞かれて答えられないのでこういう使い方であっているのかなぁ、って不安はあるのだけど

 

フィルターを通して、魅力、良さ、その理由や謎、不思議、気づきや発見、辛さや大変さ、悲しみや難しさ、喜びや興奮や欲求、不満や不安や焦り、面白さ、趣、風情、誇りたい気持ち、他にもきっとフィルターに通せることはいっぱいあってそういったものを

 

 

伝えたいこと        私                   伝えたい人達

      🗣         ➡️     🙄    ➡️  👴🏻👱🏻‍♀️👱🏾‍♂️👧🏻👨‍🌾👨‍🏫

 

こんなイメージ。

 

 

"わたしのすきなこと"って?

私の好きなこと

私の好きなこと

 

たのしい、得意だと思うことは

 

絵を描くこと。

 

 

絵を描くことってひとまとめにしてしまうのはまだ紙や画面上ではない場所で私が表現をする必要性を感じられないから。

 

きっと知ろうとする機会だったり、求められたりしなかったからまだ立体を作ることへの魅力を感じられてない。ワクワクする気持ちはあるけど。

 

だから面状の表現と限らせてもらったわけなんだけども。

 

絵を描くことが好き。

 

小さい時からずっと描いてきた。

中学生くらいまでは描いて自分の中で満足して終わっていたけど

SNSがどんどん普及して、私と同じように絵を描いてる人達の作品を簡単に見られるようになって私も載せたい、見て欲しいって欲が生まれた。

そうやって、載せれば反応がもらえて、最初はそれがとても新鮮で楽しかった。

 

その世界でのその行為、最初は絵を描く人達同士で行っていたことだったけど、匿名ではない、リア垢でも載せるようになるとそれはそれでみんな反応してくれて、似顔絵を任されたり、名刺だったり、チラシだったりをお願いされるようになった。

 

そして今、チラシ作りはお金がもらえるものになってる。

 

自分が小さい時から好きでやってきたことがお金になるって感動した。

 

絵を描くことの楽しさは

昔と今とでは変わってしまった。

 

昔は純粋にこんな人がいたらいいなあ、キラキラした人やかわいい人が描きたくて、

漫画家さんに影響されて真似したり、過去の自分の絵を描き直して自分自身の成長を感じたりすることが楽しかった。

その時の頭は無、純粋にたのしい!その一点集中、頭の中でストーリーが生まれてこんな人達がこんなことをできて、、、って作りあげてオリジナルな世界ができていくのが楽しかったんだよね、

 

今はそういうことはあまりしなくなってしまった。いつの間にか。

多分学生じゃなくなったことの影響が大きくて。

何の気なしに始まって広がっていく世界を仕事中に生み出すことはできない。

授業中、ちょっとした落書きからそれが生まれたりする時間が好きだった。

でも昔みたいに落書きを楽しむ時間は大きく減って思いついても帰ったら描こう、でも今日は疲れたから忘れないでおこう、、で終わってしまうことが増えた。

その代わりに増えたのは求められて、または求められているだろうと思って描く絵。

 

友達カップルが記念日を迎える、きっと彼や彼女は相手を喜ばせたくて、その時のプレゼントに。

私自身が喜ばせたくてプレゼントに、描くことも。

 

私の似顔絵をあたたかい、と気に入ってくれた人がその人にとって何か大切なことが起こる時に依頼をくれるようになった。

自分の中で完結される世界じゃないから反応、リアクションが生まれるようになった。

リアクションは良いとか悪いとかあるかもしれないけどあまり悪いってことを意識的に捉えることはなくて貰えることに興奮する。

 

チラシもそう。

何かのイベントのチラシ、きっとこの人はこのイベントの世界観をこんなふうに伝えたいだろうな、と想像してチラシを見た人がそのイベントを知らなくても、少しでもそのイベントの空気をチラシから感じてもらえるようなデザインにしたい。

これも反応が欲しい。

 

最初に作った自分から始めたものでは無いチラシは、ボードゲームをツールとして人の余暇やなんともない日常を彩りあるものにしたいと思って活動している団体のチラシ。

 

すごい楽しかった、どうやったらゲームをやるけどコーヒーも飲める、気軽に来れるイベントだと興味を持ってもらえるかな?と考えることが。

それを見た依頼者から、いいね!って言ってもらえることが。

こうして欲しい、というアドバイスをもらえることも。

 

そのつくりあげたチラシを見て、

発達障害の子供を持つ家族の孤独化を防ぐために活動している団体からも依頼をいただいた。

ここで初めて自分の表現にお金を払ってくれる人が生まれた。

 

ただこれに関しては作ること、で終わってしまっていてそこまで思い入れがないというのも事実で。

私は結構思い入れだったり、自分が共感できるか、理解できるかが表現を考える時のポイントになってるきがする。

 

だから似顔絵は思い入れが深い。

今までつながりがあった人たちには特に。

 

そういう人たちの今までを、わたしとの関係を振り返ってこんな人だったよねって考えながら描くことがたのしい。

 

その人がこれをもらった時どんな反応をしてくれるかなって考えるのも頭の中がピリピリと痺れるような感じ。

 

そういうことにハマっているのだと思う。

 

わたしが魅力を感じること、というのはイベントもそうだけどそこにある雰囲気、つまりそこにいる人が作り上げてるということに強く感じるみたい。

人に惹かれる。

人の魅力に気づくことができる、その部分に敏感だと自分では思ってる。

 

そういうことかぁ。

 

それをわたしを通して、第三者にもみてもらう。

そういう機会が初めて描いたウェルカムボードだったりした。

中学の友達にリクエストされて描いたウェルカムボード、思い入れのある人たちの。

 

その反応がわたしの想像以上だったからさらにさらに嬉しかった。

 

これって承認欲求ともいう。

というかそのものかもしれないけど。

 

わたしのこれが自己満足になってないかなあ、ということは常に考えなきゃいけないことだなあとも思う。

 

色々描いたわけだけどそういうあれこれをやらせてもらってわたしはわたしを通してイベントだったりそこにいる人たちの世界を第三者にも、本人たちにも伝えたいのだと思った。

 

 

そのためにわたしができることは?

 

さらに私が今のこの活動を趣味だけでは終わらせず収入として得ながら続けられる方法を考えたい。

 

趣味で終わらそうと、高校を卒業するときは思っていたこと。

だけど私の周りには地域と繋がってその街や人の魅力を知り、その地域の人たちと今後のために動いている学生や、大人が沢山いる。

 

そういう人たちに刺激をもらって今よりももっと深く、広く、いろんなフィルターとしてだけではない関わりかたを知りたいと思った。

 

そのためにやっぱりわたしは大学へ行きたい。

思考を深めたい

学問としてのデザインってなんだろう

そもそも学問とは、

問いにどうやったら気付けるんだろう

もっともっと深めたい、気づきたい

 

収入面も考えると仕事をやめて進学というのは難しく、通信制の大学を考えたい

 

専門ではなくなぜ大学なのか?

きっとわたしは技術だけではなくてなぜそれをやるのかっていうところに納得しないと進めない人間だから。

 

自分なりに魅力に気付いて、その趣旨に気付けているならきっと繋がっていくことを私はなかなか気付けない。

 

なぜそれをやるのか、この問いは常に持っていたい。

そういう思考的なところから学びたい

どういった始まりがあったのか

歴史は?今どういったことが求められている?その背景には何があった?

そこを飛ばして進むのであれば今と変わらないんじゃないかと思う。

 

絵の勉強をしたい

デザインの勉強も

でもそれだけではなくて

思考力、判断力、言語化

これらもわたしは欲しい

身に付けたいからだから大学に行きたい

 

きっと他の人とは違う生き方

てか他の人って他の人なんだから同じ生き方なわけがない

 

わたしはわたしのために大学へ行きたい

 

消費される人間でいたくない

相手は消費のつもりであったとして、わたし自身がそこに意味を見いだせていれば、

それは消費ではないと考える。

 

意味を見出すこと、気づくこと

そういった場に自らいくこと

 

まっていても変わることではないから

ここでわたしは覚悟を決める

 

大学へいこう

学ぼう、やりたくてやるべきをやっていこう

きっとどう生きても良かったと思える部分も、後悔となる部分も出てくる。

どう生きたって出てくる。

 

最近響いた言葉

 

私は私の世界の実験台 唯一許された

(1997 /リーガルリリー)

 

私の同い年のほのかちゃんの透き通った声で歌うこの歌詞がじんわりときた。

 

わたしはわたし世界の実験台

 

実験は失敗することのが多い

それでいいと、いくらでも挑戦してやろうと思えたことばった。

 

最近読んだ

桜井邦明さんの

大学は何を学ぶところか

https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%82%92%E5%AD%A6%E3%81%B6%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%8B-%E6%A1%9C%E4%BA%95-%E9%82%A6%E6%9C%8B/dp/4805206462   

 

この中でも、

自分という存在はかけがえないもので自分自身は繁殖の中で奇跡的に今の自分としては生まれてきたわけで、何か使命が課せられて生まれてきたわけではないが、だからこそ自分という存在である時間を最大限に活用し実験をしていくべきだ、、、的なことが載っていた(多分)

 

こういった言葉に背中を押されて

自分人生である責任と、自分の人生である自由両方を抱えて通信大学に進学したいと考え、思った。

 

 

自分の思いを言語化すること。

残すこと。

 

以上のことからわたしはデザインを学ぶため通信大学へ通いたい。

f:id:yubesix:20200209214208j:image