ボクたちはみんな大人になれなかった


⁠新しい幸せに気づけたのかもしれない。


私にとって今が読むべきタイミングだった作品。


なんとなくハッピーエンドではないことを分かりながら買った本。

 

気仙沼の本屋さんで読みたいと思っていたことを思い出して買ってみた。

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嬉しい時に悲しい気持ちになる、それはそこに幸せがあってそれがいつか終わることを分かっているから。いろんな言葉に付き合っていた人とのことを思い出す。(まだ元カレって言葉使いたくないんだよな🙃)

 

何かに心が動いた時、それを知って欲しいと思う、それは恋だった。

 


面白そうな公園を見つけたらそれはあなたと共有したいことだったよ。

 


面白い漫画を知った時、

かっこいい音楽を聴いてときめいた時、

美味しいお店を見つけた時、

全部全部それはあなたにも知って欲しいことで、あなたの感想を予想する。


それが予想通りでも、思ったものと違くても

全部全部幸せだったと今なら思える。

今ならね。

 

好きになった人が正義、その人のすること言うことが全部全部合ってるんだって思える現象。

信仰に近い、絶対的な。


いつか出会う自分以上に大切な存在とか。

 

それがあなただったかはわからないけど。

 


そんな気持ちを知っても一途に思い続けることが正義とは限らないなあとも思うね


感想という感想が出てこないけどただただ一つ一つの出来事がフラッシュバックするような、

 

全部を書いたあの文章に涙がぼろぼろ止まらなかった。

 

 

また一つ出会えてよかったと思える作品に出会うべきタイミングで出会えたと思う◎


もっともっといろんな本が読みたいなぁ〜〜

 

 


#ボクたちはみんな大人になれなかった 

#燃え殻 

#読書感想文 

#読書記録 

#本好きな人と繋がりたい 

#私の本棚 

#bookstagram

(2019-08-19 Instagramより)

 

 

怖くてデキる先輩とのしごとの思い出

 

この春、4年間しごとを教わった先輩が転勤する。

 

高校を卒業したばかり、

18歳の本当に何も知らない私。

先輩は本当にいろんなことを教えてくれた。

 

この会社で出会えて良かったと思える人の1番に先輩を挙げる。

 

怖くて仕事のデキる先輩、怖デキ先輩との4年間を残しておこうと思う。

 

先輩は最初からめちゃくちゃ怖かった。

それはもう見た目から。

目が大きくて、背も高くて、見るからに頭が良さそうで、それでいて物腰も柔らかくはなかった。

結構ストレートにものをいう人だった。

 

研修が終わって配属されたその職場は私(18歳)の次に若いのが怖デキ先輩(30歳)で。

干支が同じだったのだよね、、、12歳も上の男性に仕事を教わる、それだけでもど緊張だった。

 

最初の印象のまま私は先輩の前では常に萎縮していた、いやだって本当に怖いのよ。

何が怖い?顔が整っていて目が大きくて、逃さないぞって顔をしているように見えたのです🙃

質問が鋭くて怖かった。

なぜそうしたの?それはどうやって考えたの?どこを見てそう思ったの?

こうするとどうなると思う?

◎さんはどうしたい?

根拠は?証拠は?実績は?

いっぱいいっぱい聞いてくる。

 

根拠と自分なりの理由を持つこと、

分からないならわかるまで知ること。

 

先輩は私を逃さなかった。。。笑

(今はその姿勢で向き合ってくれたことにめちゃくちゃ感謝しています。)

 

ある日の業務、今までに実績のないもので私なりに色々な人に聞きながら進めていた。

先輩への提出、先輩は私が気づけていない視点をポンポンと見つけ指摘していく。

そのやりとりも一つの案件に対して3回目、

これでかんぺき!と思っても再提出をくらう。

その度、他の部署の人への確認作業。

「あなたは現場を知らないんだ、もっと勉強しろ」

「俺たちは機械じゃないんだ、そんなちょうどのものなんて作れない」

自分の中で分かっていたことだけど相手にはきっと私はその点を分かってないように見えてしまったんだろうな。

これでも現場を知らないなりに毎日見学へ行き学んでいたつもりだった。

 

何度もある指摘、製造側の意見、全部がいっぱいっぱいになって仕事中に涙が出てきてしまった、まだ入って一年なのに、まだ私一人じゃやりきれないのに、なんでこんなに責められなきゃいけないんだ。

そんな気持ちが生まれてただただもう放り投げて帰りたかった。

泣いてうまく喋れない中先輩へありのまま伝えた。先輩はうんうん、って目を見ながら聞いてくれた。

わかったよ、って。

◎さんはこれで正しいと思った?って。

私なりに正しいと思って頷いた。

そしたら先輩も

「俺もそう思う、あとは俺が確認するから◎さんは今日は帰りな。鼻水拭いて笑、一人でできないと思ったらそう言って。その時には俺も一緒に考えるから。帰りの運転気をつけて帰るんだよ」

 

先輩は厳しさの中に優しさのある人で。

厳しくしているのではなく、学んで欲しい、単純な先輩なりの疑問、先輩なりの教育の中で自然とそうなっていたのだと気づいた。

 

厳しいけど、何度も細かく指摘してくれたり、業務一つ一つことだけじゃなくて、礼儀や考え方、周りの人のために動く気遣い、そういうものを事細かく教えてくれた。

 

帰り道、たまに声に出しながら自分のできなさ加減を反省しながら駐車場まで歩くことがたまにあった。

「なんで要領よくできないんだ〜…どうしたらいいんだ〜、、」

誰もいないと思っていたら後ろから私を追い抜く怖デキ先輩。

「◎さんこんな時間まで残らなくていいんだよ。やりきれないものは俺に渡してもっと早く帰りな」本当はとても優しい人なんだと思った。

 

私が20歳を迎える誕生日当日、職場の廊下でたまたますれ違った怖デキ先輩に呼び止められた。???と思っていると紙袋。

「◎さん今日誕生日だよね、お誕生日おめでとう!」驚きすぎてドキドキしちゃって嬉しさが溢れたのを覚えてる。

中身はブラックサンダーチロルチョコがたくさん入っていて見た目とのギャップにもやられた。先輩は本当にいろんな面を持っている。

 

そして先輩の転勤の可能性もちらつき始めた社会人三年目。

先輩との関係は相変わらず緊張はあるものの前よりはリラックスして話せるようになっていた。

先輩に突然渡されたのは先輩がやっている他の業務の引き継ぎ資料。それとは別に「◎さんに教えたいことリスト」という名前で、会議についての内容や必要性、法律やら色々。

ひとつ一つに教えるのに何時間くらい必要なのかまで事細かに書かれていた。

 

一緒に一つの業務をやっているときには「◎さんはできる子だから。もっといろんなことを知って自分が楽しいと思うものを見つけて欲しい。あとは現場にいくことこそ俺たちの業務に必要なことだからもっと色んな時間帯に行ったりして知ってほしい」って。

 

先輩と過ごすうちに知ったのは、

本当なとても心配性であること

誕生日や記念日等大切にする人であること

自分なりの考えを持ちつつも人の意見を受けいれようと聞けること

"一緒に"をとても大切にしてくれる人であること

細かく砕いて理解できるように伝えようとしてくれること

本当はめちゃくちゃ口が汚いこと

自分の子供を溺愛していること

 

 

私が初対面でみた先輩からは想像もつかない面がたくさん。

 

そんな先輩が転勤。

さすがに3年経つ頃にはほとんど一人で業務をするようになっていた、それでもちょっとしたミスにも先輩は指摘をくれる。

 

今自分が教える立場にもなっていてどれだけ教えることが大変なのかを理解し始めている。

知れば知るほど先輩がどれだけ素晴らしい人なのかわかっていく。

 

きっと東京でも大活躍なんだろうなあ。

 

あと先輩と過ごせるのも3週間。

きっとまだまだ吸収できることはあるはず。

 

いつかまた会ったとき、成長した姿を見せられるよう努力していこう。

 

本当にでさえて良かったです。

 

とてもとても思い出深き社会人4年間でした。

怖いという印象と同時に、色んな面を見せてくらる先輩の可愛らしさも感じた。

 

逃げない、真正面から向き合ってくれる人と出会えたことは私にとってとても貴重な経験になった。

 

先輩がいなくなってからの日々が怖い。

それでもやっていくしかない。

 

きっと何度も教わったことを残したメモは私の中に怖デキ先輩を作るようなものだ。

なくさず、基本的な部分を大切にしていこうと思う。

 

先輩、本当にありがとうございます。

 

しごとの思い出、から連想されるのはきっとこの先も先輩との4年間のさまざまなエピソード。

 

 

さあ、感謝を忘れず、前向きに、

向き合っていこう。

 

 

 

 

 

 

転職nendo×はてなブログ 特別お題キャンペーン #しごとの思い出

転職nendo×はてなブログ 特別お題キャンペーン #しごとの思い出
by 株式会社Jizai「転職nendo」

いま

今考えないでいつ考えるんだろう。

 

今動かないでいつ動くんだろう。

 

お金の心配はもちろんある。

むしろそこの心配が7割

 

勉強面の心配で3割。

 

やりたいことはなんだろう。

結果の出ることがやりたい。

でも余白もいっぱいほしい。

無駄だと思えるような時間に無駄ではないものを詰め込みたい。

 

欲張りで、甘い。

 

考えが浅い、思いの割に動けていないのも事実で。

人に話を聞いてもらうことがどれだけありがたいことか。

どれだけ怖いことか。

 

自分が本気だからこそ怖いのかもしれない。

否定されることが。

その通りになってしまうことが。

 

 

いつまでビクビクしているんだろう

なにかを遂げるためには責任を負うということ。

結果を出すためにはそれだけ踏み込んで、浸かって、負うこと。

成功ばかりではないこと。

 

言葉にするとわかっているつもりになるけど、

怖さはより深まる。

 

言葉にすると、言葉にしたら、なんだかそれだけで少し発散される気がして、書いたらそれで済んでしまいそうで怖い。

 

それで満足してしまう自分が怖い。

 

怖いことほどきっと結果はついてくる。

良くも悪くも大きくつく。

 

それを望んでいるんでしょう?

 

望むのならリスクを負え。

 

リスクを負うのなら覚悟を決めろ。

覚悟を決めるのならこの中身を持とう。

中身を持って諦めずに、コツコツと。

 

積み上げていかなくてはいけないよ。

 

時間は待ってくれないってよく聞くけど本当に待ってくれなかった。

このブログは去年同じ気持ちで始めたものだ。

一年経った今も同じことで悩んでいるんだ。

時間は待ってくれない。

 

手を動かせ。

言葉を発しろ。

文字を打て。

筆をペンを進ませろ。

 

動かないと自分で戻って来れなくなる。

自分と離れ離れになってしまう。

 

私はなにをやりたいんだい。

やりたいことは常に正しくなくたっていいんだよー。

 

私は十分、人のために動いてきたよ。

次は自分のために動いてみよう。

 

そこに正解も間違いもないよ。

 

私のために私がしたことだ。

私がしたことに困るのも喜ぶのも私だ。

 

そういう責任を負え、きっとそれは返ってくる。

自分のがんばりと理解と行動でそれは良くも悪くも大きくも小さくもなって返ってくる。

 

そういう賭けに今出る時だ。

自分を試せ。まだ22歳。

もう22歳。

 

私は成長している。

これからも成長していく。

 

笑顔を忘れずに。



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比較

わたしにはかけがえのない大切な人たちがいるのに

その人たちを大切にできないのはなんでなんだろう

大切ってなんだろう

周りの人達とは今後どう言う関係でありたいんだろう

 

損得で考えるのは好きではないのに

決定的な判断をするとき

わたしは比較する、どちらが自分にとって

損なく、幸せで、人に羨ましがられるか

 

絶対評価相対評価

最近知った言葉である。

 

この場で使うのが正しいのかわからないが、

違いは自分の中に基準があるのか

外部に基準があってそれと比べることで評価するのか、だと考えている。

 

比較しているときは苦しい

 

なんで他人と比較するんだろう

犬とは比較しないのに

 

同じように手足があって、

同じように考えて発して

動いて、食べて、会話して

 

そうやって同じ行動をしていくうちに

その人との違いはどこなのかを見始まる

というか見えてくる

 

それがまず最初の比較だと思う、、、

 

その前に外見でも比較しているかもしれないな

 

服や髪型、風貌

その人が纏う空気

 

その時から自分や自分の知っている人との

比較は始まっていてきっとそれに合わせて態度も変えている

 

汚く、本音を言えば

今のわたしは人と比べる時の基準に

この人は自分よりも優れているか、否か

を見る

 

 

こんなの叩かれるよ、言葉にすれば今の時代

 

容姿でも、頭脳でも、体格でも、センスでも

比べる

比べてその人に優っているのか、劣っているのかを測る、測って判断して対応する

 

この人と関われば何か大きなことができるかもしれない、

この人は話がつまらない、狭い世界で生きているきたんだろうな、

この人は自分がどれだけすごいか知ってもらいたんだ、そんなこと本当に大きい人はしない

この人は思っていることがあっても言わない人だ、怖いな

 

色々見て、判断する、される

 

毎日これを繰り返すことに息苦しさを感じる

 

比較しないで生きてみたらどうなんだろう

他者に基準を作らず

自分に作ってみる

 

一緒に何か大きなことができるかもしれない人の様子を伺うのではなく自分から提案してみる、、、とか?

 

話がたまらないと感じるのなら、早めに会話を切る、それが自分が息苦しくならない方法だと思う

自分以外にも複数人いるのならその人の話を面白くする方法を考える

 

人に頼らずその場の自分を創造し

そこに私という存在を置く、動かす

 

一傍聴者、傍観者、で終わらない

本当に動きたいのなら

 

 

比較するって苦しいけど

今の自分と過去の自分を比較するのは

それほど苦痛ではないかもしれない。

 

基準を自分の中に作る、

影響されすぎないように、自分を創る

 

きっと難しいこともあるけど

そうやって生きていけたら。

 

ああ、最初の問いから

すこし逸れていたけど、

自分をつくることは相手のとの関係も

自分で作っていくこと

人と比較するから、わたしはこの人のことを大切にできていないのかも、と考えるのだと思う

 

比較するのではなく自分の中に基準を持ち、

その中で自分はその人と個の関係を作っていく

 

わたしは一般人ではなく

さいとうなのであり、さいとうのまわりには

たくさんの特別な人たちがいる

 

わたしは3つくらいにしか人を大分できていなかったように思う

個々が違うのに、

意識高い行動する系

一緒に遊ぶ系

ただ時間を過ごす系

 

思いつくとこの3つくらいにしか分けてないないのかもしれない。

変な分け方だけど、、、

 

もっと気付きたい、自分の周りの個に

みんな違ってみんないい、

金子みすゞさんの言葉が出てきちゃうほどに

その違いを楽しみたい

 

まるこちゃんの作者、さくらももこさんは

日常をよく見て、面白がる

的な言葉を残していた

 

面白がる、

面白いではなく面白がる

その面白さは自分でつくるもの

誰かに気づかせてもらう物ではなく

日常の些細の中のぽつっとある何か

それはきっと見方をかえると面白いもの

 

私の周りの大切な人たちも

見方が変われば個々を面白がることができるかも

面白がるってすばらしい

 

人を楽しませるにはまず自分が楽しむこと

 

もっと私の人生面白がろう

 

 

 

 

 

高校生の時のはなし

昨日、対話ができる場ってどんな場かなっていうのを話していて、

 

ボードゲーム×対話

 

の場を計画中である。

私がこれに関わることの意味は?

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単純に静岡でなにかしたいんだよなぁ。

 

動かないよりは動いたほうがいいと思って動いている。

要は私だって有名になりたい。

人気になりたい。

すごいって言われたい。

必要とされたい、愛されたい。

本当はそういう感情が一番本音の部分にあるのかも。

 

 

 

まあそこで、学校がつまんねぇー、って言える環境でありたいという話になった。

家で言ったら親は心配するけど

この場に来たときには気にせず言える、

そういう場にしたいと。

 

私の学生時代を思い出した。

今振り返って私自身ににはそういう場ってなかったかもな、と気づいた。

 

中3のとき、幼なじみがもう普通教科は勉強したくないし、就職したいから商業高校へ行く、と言った。

 

それを聞いてかっこいいと思ったし、そんな選択肢もあるのかと気付かされた。

私は楽しようとしてしまった。

それに当時好きだった子が農業高校へ行くって言うものだから完全にそっちにシフトチェンジしたわけです、15歳の私は。

 

勉強はできないわけではなかった。

それなりの進学校にも行けた。

でも私は怖かった。

落ちて私立へ行くことになって高いお金を親に払わせることも。

親の中の選択肢に就職しかなかったことも。

 

だから選んだ農業高校。

それに当時は動物園の飼育係員になりたかった。

 

高校に入ってからは地獄だったな。

いまだから素直に言うけど

合わなかった。

みんな勉強は頑張らないし、行事は適当

クラスで行動することもあまりなく

高校生にもなって、という感じがするけど男女の仲が悪く、

わたしはもっと低いレベルに合わせなきゃ行けないのか?とずっと頭の中でもっとバカでいよう、とか勉強がんばらなくてもある程度の順位にいれるな〜とか。

 

楽をした。

その対価。

 

ただただつまらなかった。

他の高校に行った友達が羨ましかった。

 

でもこの言葉を周りの大人に吐けたかというとまずその選択肢がなかったなぁ、ってことに今更気づいたの。

言っていい言葉ではないと思ったし、

言ったところで、、と思っていたから。

 

きっと優秀な人はこの環境さえも楽しめるんだろうなぁ、とか。

進学校へ行った友達とどんどん差ができていくようで悲しかった。

 

 

あのとき、つまらない、って言える人が周りにいたらなぁ。

 

つまらないって言ってよかったんだ。

今思いつくのはやっぱり先生に言うことで。

 

でも私は高校生の時、高校の先生を信用していなかったと思う。

なんだか、一生徒としてしかみられていない気がして。

私という存在としてみてくれていた先生は高一のときにいなくなってしまった。

 

その時の私なりに、

この環境でどう楽しもうか考えてはいたつもりだよ。

 

社会人になって気づいたことだけど

高校生の世界ってとてもせまい。

 

せまいし、知らないことが多くて、知らないでいれば見過ごしてしまうことも多い。

 

そういう時、大人を頼れたらよかった。

 

私を取り巻く環境は

学校の友達、先輩、後輩、先生、家族

くらいでしか構成されていなかった。

 

先生から選択肢をもらったわけではないし、

親からは就職が当たり前だと思われていた。

 

そんな中自分で見つけた進路にデザイン専門学校があった。

何度もオープンキャンパスに通って、私やっぱりここに行きたい!と思っていたけど今高卒就職しているわけで。

 

一番な理由は親とのぶつかりだった。

私の将来を心配しての判断だったと理解しているつもりだけど納得できていない、今も。

そういうわだかまりや、親への不信感が今の親との関係も作っていて、親のこうあるべき、こうしてほしい、の中で生きているのだなぁと思う。

 

進学したいと言った時、

遊びに行くなら行かせない。と言われた

遊びに行くようなコに見えていたのかな、親には。

 

多分そこらへんの学生(失礼な言い方ですみません当時の私の思いです)よりも将来のこと、やりたいことを考えていたし、行動に移していたと思うよ。

 

そんな時、相談できる人が身近にいれば。

 

私なりに動いた、その専門学校に実際に通っている人たちに何度も話を聞いたし、知らない先輩たちにもTwitterのDMでたくさん質問させてもらった。

 

たまたま高校の授業で行ったインターン先に元々デザインの仕事をしている人がいた。

 

その人にも私なりに相談して進学への意志は固めていたのに。

 

どこまで頼っていいのか、話していいのか、決めていいのか、私にはわからなかったんだよ。

そんな中親からは当たり前のように就職しか考えないと言われた。

 

専門学校だったからいけなかったのかな。

大学だったら違った?

大学という選択肢すら当時の私には誰も教えてくれなかった。

お金があってある程度勉強できる人がいくところ。

進学校で今勉強を頑張っている子たちが掴むところ。

というイメージで到底私に行けるような場所ではないと思っていた。

わたしは当時から静岡を盛り上げたいと考えていた。

具体的な案があるわけではない、でも手段としてイラストやデザインを使いたかった。

 

今だから知っている。

そういうことを学べる学部があること。

一般入試以外の受験方法があること。

 

あとから知って、気づいてもただただ苦しいだけだった。

 

高校生の私は未熟で無知で繊細だったから

誰かの反対意見が怖かった。

親から心配される未来が実現してしまったら、と考えるとリスクが高く感じてしまった。

 

 

そんな中で反対されながら決断できる強い意志はなかったんだよ。

 

そういう時、

わたしにも第3の居場所があったら。

今回のミーティングで話したような、先生でも親でもない人との自分の本音で話せる場があったら。

 

わたしの話は大袈裟で、後悔の塊で聞いていて周りまで暗くしてしまうことが多いけど

そんな話が許される場が提供されていたら。

 

だからそういう場って必要かもしれない。

実際に経験できなかったけれど、

わたしのような高校生、または社会人も。

悩みを少しでも軽くできるなら、それを分かってあげられるなら

 

わたしがやる意味もあるのかもしれない。

本当にそういう場が必要だと知っているわたしがやる意味はあるのかもしれない。

 

 

わたし自身色々な手段を知った今、そのまま胸にわだかまりを残したまま生きていこうとは思っていないし、当時感じ、今の関係性を作ってしまっている親にもあの時の気持ちや感情、今後のことを話さなくては、と考えている。

 

このままではわたしは親に感謝できなくなってしまう。

あの時のことを親のせいにしてしまう。

 

そうではない、わたし自身が選び、今はまた進んでいるんだと実感しなくてはいけない。

 

 

きっと高校生のわたしではたどり着かなかった地点に今いる。

 

楽をした代償。

 

だけど取り返せるよ。

返さなくても作ってはいける。

 

一枚一枚できることを重ねていく。

あの時の、高校生のわたしの気持ちを私はまだ忘れてないからね。

22歳になった私が17歳の時のわたしの言いたいけど言えなかったことに今耳を傾けている。

そうだよね、って。

 

今だからこそ気づけたことも、

スタートが出遅れてしまったことも事実で

あの時とは違う不安がわたしの中を占めているけど弱音を吐いて行動しない時間を過ごしているわけにはいかないんだ。

 

わたしは静岡を盛り上げる。

わたしの好きな静岡を。

人もまちも、出会いもきっと1枚1枚重なってきている。

 

もっと沢山の重なりを、厚みを、深さを、あたたかさを。

わたしが今がんばることが見えてくるんじゃないか。

 

高校選びに失敗した私と、17歳の頃の思いとそれからの苦しんだ私の思い全部今の私を作ってる。

 

嫌なことばっかりではなかったし、こんなに幸せでいいのかな、と思うこともあったけど

きっとやりたいことをやっていく方がそれは何倍にもなってわたしに降りかかってくるのだと考える。

 

ずっと書いていても埒があかなくなる文章。

当時の私は後悔の塊で、今もその塊は消化されていないから。笑

 

私は私のために私である。

後輩の子が言っていた言葉だけど正しくそれだ。

 

私は私のために私でありたい。

あの時の私のために、今の私のために。

 

 

 

 

 

ささいなこと

 

些細なことが気になってしかたない時がある。

 

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本当にくだらないことなのに、

どうでもいいと言ってしまえばそれまでのことなのに、

そのちょっとのことを気に留めて何度もぐるぐる頭の中で考え直したり開きなおり始めたり怒り始めたり。

 

そんな自分を客観的に見て、

そんなに考えるこたないだろ〜〜って

冷めた目で自分を見ている自分もいる。

 

気づいているのと、思っているのは違うんだよな。

 

気づくっていうのはもともと自分になかったものに気づくってことでそういう見方もある、って途中で気づく。

別の視点。

 

その別の視点で自分を見たときに一つの視点として冷めた視点から見ているわけで、

その時冷めた目で自分を見ている自分がいることに気づく。

 

 

思っている、は意図せず、自然とその発想になることじゃないかな。

気づくとか別の視点、とかいう時のその現時点での自分は、自分で思うことを思っているわけで。

その思いから広がった一つが気づきかなって。

 

何をいってるんだろうなぁ(これは気づき)

 

 

そしてまた気づきは思いにもなる。

 

思いは気づきにもなる。

無意識に思っていること、考えていることは言葉にしてみたり、視点を変えたりすることで気づきになる。

 

気づく、そんなふうに考えていた自分がいたのかぁ〜って。

 

そしてそれは自分の思いになる、意志にもなる。

 

今回のこの文章も普段の自分なら気づかないことかもしれないし、気づいてもこうやって文章にしなかったかもしれない。

 

ただ今日はこうやって本当に些細なことが気になる日だったから。

 

 

ありがとうって言われないこと。

 

椅子がしっかりと席にしまわれていないこと。

 

LINEの返信が遅いこと。

 

時計の秒針の音。

 

周りの人の咀嚼音。

 

隣で広げられる雑談。

 

普段なら気にならないことが気になる日。

 

気になってほっておけなくなる、

素直にいってしまいたくなる。

 

伝え方に悩む。ストレートに伝えるのは難しい。でも一番、ベストだったりもする。

 

ありがとうって言われないことをこんなに気にしている自分がいる、そのことを放っておけないと思った。

自分のそういう気持ちを蔑ろにしちゃいけないって。

 

反面、そんな些細なこと気にするなよ、そんなこと気にしてるなんて心が狭いぞ。

と冷めた自分は気づいてもいる。

 

 

普段から見返りを求めるなんてことはない。

でも、私の中で順調にいかない理由はあなたにあったわけで、何度も訂正してやっと終わったときにあなたからの、

ありがとうがあるだけでどれだけ救われたんだろうなぁ。

 

ありがとう、というまでもない些細なことなのかもしれない、あなたにとっては。

 

でも私にとってはそれは些細なことではなかったかもしれない。

 

あなたにとってありがとうと言うまでもないことに私はありがとうを求めているのだとしたらとても苦しいな。

 

わたしの中で当たり前ではないことが

あなたにとっては当たり前だと言うことで。

そんなあなたとこれからも一緒にいれるかな、なんてこともぼや〜っと考えてしまう。

 

ありがとうもごめんね、も言うまでもない感謝や申し訳なさってないんじゃないかな。

 

少なからず思い、思い浮かべる言葉を発するかどうか。

 

他人が思うことを私が折り曲げるのは違うとわかっている。

わかっている上で、それでも

あなたと私で決めたことにあなたが人ごとのような返事をしたことがどうしても引っかかってしまったんだよ。

 

引っかかったことにはできるだけ早く気づいてあげることが大切で

人に伝えるなら尚更早いほうが良くて。

 

腹の中で温めすぎた言葉は発してみると

温度差がありすぎて聴いてほしい人には届かない時がある。

 

そうなる前に伝えなくては、と思うけれど

伝えるべきだと思う言葉ほど温めがちになってしまうのだよなぁ、取り出せないんだよ。

 

だけどずっと温めていても中々溶けてはくれないからやっぱり伝える。

 

案の定、私の言葉はあなたと温度差があるから

伝わってない。

 

伝わっていたらすぐに返してくれたでしょ?

私が怒っていることも伝わらない。

 

私自身も言葉を選びすぎたかなと思う。

 

私は文章の一字一句、置く場所を選びすぎる。

だれと比べて、というのではなくて

 

Twitterのたった140字に文字を入れるとき

できるだけ短くしつつも、情景が想像しやすいことだったり、その伝えたい出来事のどんな場所がどんなふうに感じられて面白かったのか。

それはどんな表現なら伝わるか、

クスッと笑えるツイートにするつもりなのか

なるほどなぁ〜と周りから共感や理解を得られるツイートにしたいのか、

 

そんな時の、は、や、が、だけで伝わるニュアンスの違いを感じたりする。

だからまあTwitterで文章作るの難しいし、いいねが多くついたときにはこの説明で伝わったんだ、私の面白いと思ったポイントは他人ともずれなく面白かったんだ、という嬉しさや安心感がある。

 

そんなこんなで私は日常の一つ一つのことに悩みすぎなのかな。

 

これって普通ですか?

 

普通じゃないよって言われたところで変えようはないのかもしれないけど。

もう少しだけ判断力をつけたい。

この二日間位特に強く思っているかも。

 

私は私で

誰に何か言われたところでそれは気づきでしかなくて、思いになるためには自分自身で理解しようとすることが大切。

 

自分のものにできるまでの手順を私はよく省く。

省くから応用が効かない。

そのプロセスが一番重要なのに…今の私には。

 

 

あ〜またちまちまと色んなことを考えてしまうわけだけど私はどうするべきだと思う?

私自身に問う。

 

他人にどう思われるか、という視点は何をするにも持ちがちなんだけどどうすれば気にならなくなるんだい??

 

気になっていていいんじゃないかな。

 

気にしないのが無理なら見られていると最初から思っておけばいいんじゃないかな。

 

見られていると分かっていながら最初から物事に取り組むことに慣れていけばいいのかもしれない。

 

きっと見られてる(気になる)のは居心地が悪い。

見られていることが嫌なのではなくて

見た人が私の行いに何か発言するのが嫌なんだ。

発言しないのもいや。

つまり何かしらを思われるのが嫌。

自分から遠い人に何を思われてもいいけど

近い人、尊敬している人から何か思われるのは怖い。

何が怖い?

 

あなたの想像の中の私と、

実際の私に違いがあること。

特に期待はずれ、であったときがこわい。

 

勝手にイメージを作られているくせにそのイメージと自分が違っていたら怖いなんて、私は相当お人好しだな。

 

その期待外れってなんなんだ。

無視してしまえよそんなもの。

 

私なりの精一杯を見せてやれよ。

 

人に見せたいタチのくせに見られたくないところ、見て欲しくない人に臆病な自分を私は知っている。

 

 

わかるよ。

 

 

人に何かを思われることはこわい。

 

なんでこの気持ちって強いんだろうな。

 

でも、この言葉で済まして、これで終わってしまってはダメだと思う。

私自身、こんなんで死にきれない。

大袈裟な話だよ笑

 

でも死にきれない。

まだ死ねない。

 

やりたいことを人の言葉で閉ざすんじゃないよ。

 

やりたいと思ったのならやってみようよ。

笑われるかもしれないし

自分でやってて呆れてくるかもしれないし、放棄したくなるかもしれないけどやってもない私の想像はこの程度でしかなくて

 

やってみたとき初めて他の景色や感情にも気付けるんじゃないか。

 

 

気づくってそういうことだろう

 

思いだけでは不十分で

気づきだけでは動けない。

 

 

だから私は私の心で考えなきゃいけない。

 

自分の足で、手で、口で動かなきゃいけないんだよ。

 

 

ちょっとしたささいなことが気になる日は

自分で変えられるものから変えていく

 

 

そうやって伝えた言葉がたまに届いたりする。

それは相手を思って気づけた気持ちに言葉が乗るから。

 

 

言葉だけでは足りないこともあるけど

それでも気づいたのなら出してあげること。

 

温めすぎてとっさにぶつける言葉にならないように、相手の顔を見つめつつ、自分の思いは出してあげよう。

 

それがきっとささいなことも、大きなことも

自分が生きやすくなるために必要なことだと思う。

 

 

ちょっとしたことに3400字も書く自分にびっくりしているけど思いって形にしてみないと気づかないものだなぁ、

はてなブログで書いたりFacebookで書いたりしてつくづく思います。

 

 

もっと言語化していこう。

 

この力だいじだ。

 

もっともっと自分のことを大切にしてあげることが些細なことが気になった自分を抱きしめて助けてあげる一つの方法なのかもしれないなぁ

 

 

 

 

 

 

あいみょんとたそがれたかこ

もう一度。

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どうしても絶対に行きたいと思っていた場所に行けた。

 

大切な人と、だいすきなアーティストを、同じ空間で、隣同士で、手を繋いで、見て聴いていられたこと。

 

2/13(木)

SIX SENSE STORY 2020

additional show @大阪城ホール

ツアーのファイナル公演に行ってきた。

 

あいみょんがLIVE中に言っていたこと。

自分が4年前スピッツ大阪城ホール公演の前座として路上ライブをして、なんで自分がそのステージいられないのか、悔しくて仕方がないと言っていた。

そう思えるあなたがすごい、と私は思ってしまうけど。

 

あいみょんは4年後それを実現したわけで。

そんなあいみょんを心から応援するファンが全26公演を満席にさせて、みんながあなたの曲を知っていること、歌えること、あなたに魅せられているということ。

 

すごい、

語彙力のなさを露呈する表現ですね。

すごいよ。

 

あなたのその熱くて素でいてくれる、友達みたいにファンと関わってくれるその姿勢。

 

最後から2番目

君はロックを聴かない

あいみょんはそれをこの大阪城ホールで大合唱することを望んでいた。

そしてそれが叶った瞬間に私自身が居れたこと。

 

本当に本当に嬉しかった

あいみょんも鼻を赤くしていてちょっと顔を歪ませていてでも力いっぱい歌う姿が、

ギターを弾く姿が、かっこよくてかっこよくて。

 

震えてしまった。

 

 

2つ上の人生の先輩。

同世代の人のかがやく姿に私はめちゃくちゃに感銘を受けたし、刺激をもらったし、私自身負けてられないと思った。

 

あいみょんあいみょんの道を行くことを

怖くても決断して

その気持ちもエネルギーにして

作品を作り出している

 

かっこいいなあ。

 

女だからとか

 

女らしさとか

 

女性らしさとか

まあ全部おんなじなんだけど

ジェンダーに囚われてないと思う

 

ギターを弾く時

彼女はスカートをはかないと前に何かで言っていて、それはその姿に女性的な可愛いがあるから。と言っていたと思う。

 

そんな可愛さで勝負する気はなくて

 

でもへそはだすんだよなぁ、あいみょん

 

そこだよね、男らしさを求めてそうしている訳では無いってこと。

 

ポリシーなんだろうなあ。

自分の表現したい世界にスカートで魅せる可愛らしさは違くて、でも表現したい世界はきっと男性らしさでもない、私はこうするの、それがかっこいいでしょ?って見せてもらってる気がする。

 

自分がときめくもの、かっこいいと思うもの、可愛いと思うもの、そういうものを私はこれがいいと思うんだ、それで進むんだって決意。

それが本人からも作品からも"あいみょんらしさ"になって溢れ出ていて私たちはそれを浴びているんだなぁと思う。


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ちょうど読んだ作品

入江喜和 さんの たこがれたかこ

 

この中で美馬さんが

迷った時には派手な方を選ぶ

それでも後悔しそうになった時のおまじない

"これでいいのだ"

 

これでいいのだ。

私が悩んで決めたことだから、これでいいのだ。

 

あいみょんにその覚悟を感じた。

これでいいのだ、私はこれがいいと思ったのだ、この道で進むんだ。

 

これは言葉で言うのは簡単だけど心からそう思って言うのはとても怖いことだと思う。

 

私も言えるようになりたいなぁ、

なにかに不安になった時、自分の選択を振り返って躊躇しそうになった時に

自分に言ってあげたい言葉だなぁと。

 

 

あいみょんはそうやって言葉にしたわけではないけど、でも彼女を見ていたらそうやって感じたんです、私は。

 

そういう意味でも、生で彼女を見れたことは私を感動させてくれた。

 

有言実行している姿に。

 

ファンの子たちとの接し方に。

 

眼差しにも歌声にも。

 

かっこいい、かっこいい。

 

そんな彼女の歌に何度も励まされた。

 

私は去年の夏、彼とロッキンに行って、

その時またあいみょんに会うなら彼とがいいって思って今日この日を迎えられた。

 

今この時に横で聴いている彼との思い出も重ねてしまったし、

彼が横にいることの有り難さをも感じた。

 

全部がこの場があるからかなって、大袈裟に考えしまって涙が止まらなかった。

ぽたぽた落ちてきて、そんな時に横で涙を流している彼に気づいた。

 

そんな彼と一緒に来れてほんとうに良かったんだと思った。

ありがとう。

あいみょんありがとうって。

彼にもありがとうって。

 

心が一気に素直になって今伝えなきゃって思った。

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彼といる時間はできればずっと続いて欲しいけど、お互いにやりたいことややっていくことが違うから離れてしまうのかもしれない。

 

まだそれをわかったよ、って受け取れるだけの強さも信じる力も持てていない私がその時、

これでいいのだ、って心から言えたらそれは私の選んだ道だと胸を張れる。自信になっていく。

 

そんなふうにいきたいと思わせてくれたこの大阪でした。

 

また彼との思い出が一つ。

あいみょんへの想いが深く。

 

頑張ろうと思える力を補充しました。

 

アウトプットすることの大切さにも気づき始めた。こういう思いは形にしないと気づかないうちにまた他の気持ちへと消化されてしまったり吸収されてしまうから。

その前に残しておこうと思う。

 

 

ほんとうにほんとうにありがとうと思えた。

 

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ありがとう、これでいいのだ!