ささいなこと
些細なことが気になってしかたない時がある。
本当にくだらないことなのに、
どうでもいいと言ってしまえばそれまでのことなのに、
そのちょっとのことを気に留めて何度もぐるぐる頭の中で考え直したり開きなおり始めたり怒り始めたり。
そんな自分を客観的に見て、
そんなに考えるこたないだろ〜〜って
冷めた目で自分を見ている自分もいる。
気づいているのと、思っているのは違うんだよな。
気づくっていうのはもともと自分になかったものに気づくってことでそういう見方もある、って途中で気づく。
別の視点。
その別の視点で自分を見たときに一つの視点として冷めた視点から見ているわけで、
その時冷めた目で自分を見ている自分がいることに気づく。
思っている、は意図せず、自然とその発想になることじゃないかな。
気づくとか別の視点、とかいう時のその現時点での自分は、自分で思うことを思っているわけで。
その思いから広がった一つが気づきかなって。
何をいってるんだろうなぁ(これは気づき)
そしてまた気づきは思いにもなる。
思いは気づきにもなる。
無意識に思っていること、考えていることは言葉にしてみたり、視点を変えたりすることで気づきになる。
気づく、そんなふうに考えていた自分がいたのかぁ〜って。
そしてそれは自分の思いになる、意志にもなる。
今回のこの文章も普段の自分なら気づかないことかもしれないし、気づいてもこうやって文章にしなかったかもしれない。
ただ今日はこうやって本当に些細なことが気になる日だったから。
ありがとうって言われないこと。
椅子がしっかりと席にしまわれていないこと。
LINEの返信が遅いこと。
時計の秒針の音。
周りの人の咀嚼音。
隣で広げられる雑談。
普段なら気にならないことが気になる日。
気になってほっておけなくなる、
素直にいってしまいたくなる。
伝え方に悩む。ストレートに伝えるのは難しい。でも一番、ベストだったりもする。
ありがとうって言われないことをこんなに気にしている自分がいる、そのことを放っておけないと思った。
自分のそういう気持ちを蔑ろにしちゃいけないって。
反面、そんな些細なこと気にするなよ、そんなこと気にしてるなんて心が狭いぞ。
と冷めた自分は気づいてもいる。
普段から見返りを求めるなんてことはない。
でも、私の中で順調にいかない理由はあなたにあったわけで、何度も訂正してやっと終わったときにあなたからの、
ありがとうがあるだけでどれだけ救われたんだろうなぁ。
ありがとう、というまでもない些細なことなのかもしれない、あなたにとっては。
でも私にとってはそれは些細なことではなかったかもしれない。
あなたにとってありがとうと言うまでもないことに私はありがとうを求めているのだとしたらとても苦しいな。
わたしの中で当たり前ではないことが
あなたにとっては当たり前だと言うことで。
そんなあなたとこれからも一緒にいれるかな、なんてこともぼや〜っと考えてしまう。
ありがとうもごめんね、も言うまでもない感謝や申し訳なさってないんじゃないかな。
少なからず思い、思い浮かべる言葉を発するかどうか。
他人が思うことを私が折り曲げるのは違うとわかっている。
わかっている上で、それでも
あなたと私で決めたことにあなたが人ごとのような返事をしたことがどうしても引っかかってしまったんだよ。
引っかかったことにはできるだけ早く気づいてあげることが大切で
人に伝えるなら尚更早いほうが良くて。
腹の中で温めすぎた言葉は発してみると
温度差がありすぎて聴いてほしい人には届かない時がある。
そうなる前に伝えなくては、と思うけれど
伝えるべきだと思う言葉ほど温めがちになってしまうのだよなぁ、取り出せないんだよ。
だけどずっと温めていても中々溶けてはくれないからやっぱり伝える。
案の定、私の言葉はあなたと温度差があるから
伝わってない。
伝わっていたらすぐに返してくれたでしょ?
私が怒っていることも伝わらない。
私自身も言葉を選びすぎたかなと思う。
私は文章の一字一句、置く場所を選びすぎる。
だれと比べて、というのではなくて
Twitterのたった140字に文字を入れるとき
できるだけ短くしつつも、情景が想像しやすいことだったり、その伝えたい出来事のどんな場所がどんなふうに感じられて面白かったのか。
それはどんな表現なら伝わるか、
クスッと笑えるツイートにするつもりなのか
なるほどなぁ〜と周りから共感や理解を得られるツイートにしたいのか、
そんな時の、は、や、が、だけで伝わるニュアンスの違いを感じたりする。
だからまあTwitterで文章作るの難しいし、いいねが多くついたときにはこの説明で伝わったんだ、私の面白いと思ったポイントは他人ともずれなく面白かったんだ、という嬉しさや安心感がある。
そんなこんなで私は日常の一つ一つのことに悩みすぎなのかな。
これって普通ですか?
普通じゃないよって言われたところで変えようはないのかもしれないけど。
もう少しだけ判断力をつけたい。
この二日間位特に強く思っているかも。
私は私で
誰に何か言われたところでそれは気づきでしかなくて、思いになるためには自分自身で理解しようとすることが大切。
自分のものにできるまでの手順を私はよく省く。
省くから応用が効かない。
そのプロセスが一番重要なのに…今の私には。
あ〜またちまちまと色んなことを考えてしまうわけだけど私はどうするべきだと思う?
私自身に問う。
他人にどう思われるか、という視点は何をするにも持ちがちなんだけどどうすれば気にならなくなるんだい??
気になっていていいんじゃないかな。
気にしないのが無理なら見られていると最初から思っておけばいいんじゃないかな。
見られていると分かっていながら最初から物事に取り組むことに慣れていけばいいのかもしれない。
きっと見られてる(気になる)のは居心地が悪い。
見られていることが嫌なのではなくて
見た人が私の行いに何か発言するのが嫌なんだ。
発言しないのもいや。
つまり何かしらを思われるのが嫌。
自分から遠い人に何を思われてもいいけど
近い人、尊敬している人から何か思われるのは怖い。
何が怖い?
あなたの想像の中の私と、
実際の私に違いがあること。
特に期待はずれ、であったときがこわい。
勝手にイメージを作られているくせにそのイメージと自分が違っていたら怖いなんて、私は相当お人好しだな。
その期待外れってなんなんだ。
無視してしまえよそんなもの。
私なりの精一杯を見せてやれよ。
人に見せたいタチのくせに見られたくないところ、見て欲しくない人に臆病な自分を私は知っている。
わかるよ。
人に何かを思われることはこわい。
なんでこの気持ちって強いんだろうな。
でも、この言葉で済まして、これで終わってしまってはダメだと思う。
私自身、こんなんで死にきれない。
大袈裟な話だよ笑
でも死にきれない。
まだ死ねない。
やりたいことを人の言葉で閉ざすんじゃないよ。
やりたいと思ったのならやってみようよ。
笑われるかもしれないし
自分でやってて呆れてくるかもしれないし、放棄したくなるかもしれないけどやってもない私の想像はこの程度でしかなくて
やってみたとき初めて他の景色や感情にも気付けるんじゃないか。
気づくってそういうことだろう
思いだけでは不十分で
気づきだけでは動けない。
だから私は私の心で考えなきゃいけない。
自分の足で、手で、口で動かなきゃいけないんだよ。
ちょっとしたささいなことが気になる日は
自分で変えられるものから変えていく
そうやって伝えた言葉がたまに届いたりする。
それは相手を思って気づけた気持ちに言葉が乗るから。
言葉だけでは足りないこともあるけど
それでも気づいたのなら出してあげること。
温めすぎてとっさにぶつける言葉にならないように、相手の顔を見つめつつ、自分の思いは出してあげよう。
それがきっとささいなことも、大きなことも
自分が生きやすくなるために必要なことだと思う。
ちょっとしたことに3400字も書く自分にびっくりしているけど思いって形にしてみないと気づかないものだなぁ、
はてなブログで書いたりFacebookで書いたりしてつくづく思います。
もっと言語化していこう。
この力だいじだ。
もっともっと自分のことを大切にしてあげることが些細なことが気になった自分を抱きしめて助けてあげる一つの方法なのかもしれないなぁ